JKT48のオタクになってみた -coba menjadi fans JKT48

JKT48とそのファンを研究対象にしたら自分もミイラになったでござる

JKT48の歌詞が聴こえてきた

インドネシア語学習の成果か、いや明らかな成果だろう、劇場公演を見ながら歌詞が少し分かるようになって来た。
今迄は完全に呪文だった言葉が意味を持って頭に入ってくるようになった!
そうするとダンスがアテ振りであるところがあるのも分かったし、表情豊かなメンバーのそれがどういう意味を持っているのか分かってきた。曲とタイトルが一致するようにもなった。
個人的に大変大きな進歩である。

プロデューサーの秋元康氏はインドネシア進出に伴って、歌詞が現地の宗教や文化背景に差し障ることがないよう考慮したと各所で明言している。
ただ、それを感じるところは正直あまりなく、セクシーな楽曲や同性愛を匂わせる楽曲に最初は面食らった程である。
それも兎も角、文化・習慣の異なる国で日本の歌をそのまま翻訳して歌うのはどれ程意味があるのかとも考えさせられる。

氏が目指すのは新しいスタイルで、従来のローカライズのように現地の味に寄せるのでなく、日本の味をそのまま持って行くのが特徴だ。
だからJKT48の曲を通じて、ああ桜という花は別れの季節に咲くんだ、とか、バレンタインには女の子が好きな男にチョコレートを渡すんだ、とか、学校に行く時には電車に乗って学校では下駄箱に靴を入れて上履きをはくんだ、とか分からないけど、日本の文化を知ることが出来るという意味合いがあるだろうと思う。
海外ではアニメからお弁当やおにぎりが知られて、部活や文化祭、運動会に興味が持たれているというので、真に伝わっているかはわからないがその様な側面はあっていいだろう。

しかし、しばしば指摘されるのはJKT48の歌詞が不自然なまでに直訳だということだ。
流石にその感覚を掴むのは難しいが、恐らく歌詞の内容をなぞるだけで「歌」になっていないのだろうと推測する。
リズムを合わせたり、心に響く様な言葉を選んだり、ということが歌詞には必要だ。
『Let It Go〜ありのままで〜』は言葉選びに重きが置かれ、原曲と歌詞の内容が違ってしまったということが一部で話題になっていたのを思い出す。
特にインドネシアでは曲よりも歌詞を味わうことが人々の楽しみだそうで、そういう意味でJKT48の歌が一般受けすることは難しいと現地の友人が言っていた。

JKT48のオリジナル曲リリースが長らく待たれている。
実現するとしたらどの様な制作手法が取られるのか、気になるところではあるが、その頃には自分も歌詞を聴いて楽しむことができるくらいになっていたい。